日本ヒューレット・パッカード(日本HP)歴代社長の評価・評判・実績

<日本ヒューレット・パッカードの歴代社長>
名前 評判・実績・評価など

横河正三

(よこがわ・しょうぞう)

横河正三

※横河電機の創業者の末っ子。米ヒューレット・パッカード(HP)と横河電機の合弁でHP日本法人を設立し、初代社長に就任。日米合弁の先駆けとなった。

【期間】
1963年9月~
1974年11月

【生まれ】
1914年8月31日

【死去】
2005年12月26日(享年91歳)

横河電機の常務時代に、HP日本法人の設立交渉に奔走し、設立の初代社長に。「理屈を通す」という性格で、米HPと横河電機本体という2つの親会社(株主)と衝突しながら、優良企業に育て上げた。

社長就任時の年齢

49歳

社長就任前の役職

横河電機常務

出身地

東京・高輪

学校

小学校から大学まで慶応だった。

出身校(最終学歴)

慶応大学(経済学部)
※1937年卒業

新卒での就職先

1937年、横河電機製作所(現:横河電機)入社

生誕・出生

家は3階建ての洋館
※使用人が10人くらい

父親は横河電機の創業者・横河民輔。その男3人、女4人の末っ子として生まれた。姉2人は赤子の時に亡くなり、5人兄姉として育った。大正3年に生まれたため、正三(ショウゾウ)と名付けられた。民輔が50歳過ぎてからの子供だった。

父親:横河民輔

父・民輔は起業家であると同時に、明治を代表する有名建築家の一人。帝国劇場や旧三井本館の設計を手がけるなど、日本の鉄骨建築、耐震設計の先駆者と知られている。

兵庫県の東二見に1864年に生まれ、15歳ぐらいまで明石で過ごした。その後は上京し、現在の東大工学部、工部大学校に進学。造家学を専攻した。

当時の大学は役人養成学校で、普通は卒業と同時に留学し、官界に入る。しかし彼はあえて民間に進み、しかも独立して事務所を構えた。日本の建築の将来あるべき姿を見据えていたからこそできたのだろう。時代の先覚者だったことを表すエピソードの一つだ。

大学では、イギリスから明治政府に招かれたコンドル教授の教えを受けた。ただ単に西洋建築を輸入するのではなく、日本の気候風土にあったものを目指す教授の考え方を学び、西洋の良いところを取り入れていった。卒業制作にも、和洋折衷のユニークな作品を提出している。

「三井総本店」(旧三井本館)を担当

一度は独立した民輔だが、事業は軌道に乗らなかったようで、1895年三井グループ入社。ここで「三井総本店」(旧三井本館)を担当する。日本初の鉄骨構造だった。海外を精力的に視察し全力を傾けた。外観は荘重なネオバロック風。同時、房総半島の石をタイルにして外壁に張るなど、日本風も取り入れた。この功績ですっかり有名な建築家になった。

ビル完成後の1903年に退社し、再び独立。横河工務所(現横河建築設計事務所)を開く。「今日は帝劇、明日は三越」と言われた二つの有名建築を手掛けた。劇場に食堂を付けたり、日本で初めてエスカレーターを設置したりと、新しい発想を次々と提示。すべてが庶民を意識したアイデアだった。

事業家として

一流の実業家でもあった。鉄骨橋梁部門を横河橋梁製作所(現横河ブリッジ)として分離独立させ、世界的な橋の建設会社になった。大鳴門橋などを手掛けたことで有名だ。これ以外にも、建築関係の諸会社を次々と設立。それまで輸入していた材料の自給を試みる。

こうした流れのなかで、計測・制御機器メーカーの横河電機製作所(現横河電機)も設立した。

母親

母、下枝は実家が儒者で明治の高名な教育者だった棚橋絢子の娘。それだけに自分の子供へのしつけはとても厳しかったという。

兄・横河時介

兄・横河時介(長男)は横河電機の社長になった。

略歴

45歳で横河電機の常務に

横河電機入社後、スピーディに出世し、1955年には取締役に。1960年、45歳で常務になった。 当時の横河は工業計器システム事業が好調だったため、この分野を伸ばすうえで不可欠な「高周波測定器」の強化を目指すこととなった。 しかし、日本は技術が未熟だったため、技術のある外資と組む必要があった。

「日本HP」設立に奔走

当時の高周波測定器の世界一は米ゼネラル・ラジオで米HPは2位だった。横河電機の社内ではどちらと組むかで意見が割れたが、正三氏はHP派だった。「設立して20年ぐらいの新興会社だが、勢いがある」「米国の企業にしては、長期的にものを見るし、社員を大切にして人員解雇をしない。横河の社風に似ている」というのが理由だった。

交渉役を買って出る

横河電機の当時の山崎巌社長を説得し、自身がHPとの合弁交渉にあたるため渡米。相手の窓口は海外担当のW・ドゥーリトル副社長。「我々は100%出資子会社で海外展開する方針だ」として合弁は拒否された。当時、HPは西ドイツに100%出資の会社を作り海外進出を始めたばかりでだった。

夫婦で親交を深める

とはいえ、当時の日本は外資100%子会社が認められておらず、急いで日本に進出するなら合弁方式しかない。今度はドゥーリトル副社長が来日し、日本で交渉が続いた。正三氏とドゥーリトル氏は夜に何度も酒をくみかわし、妻同伴で箱根(神奈川)や熱海(静岡)、京都へ一緒に旅行をしたこともあったという。自宅に音楽家を招きコンサートを開くなど、親交を深めた。

横河51%、米HP49%の出資比率で合意

最終的には横河51%、米HP49%の出資により日本法人を設立することで合意。交渉は9カ月に及んだ。「裏がないし単純明快」という正三氏の人柄が、相手の理解を得られやすかったようだ。HPが横河をパートナーに選んだ理由としては「日本企業の中で珍しく自己資本比率が高い」「メーカーとして品質が高い」「経営哲学が明確」などがあったようだ。

自ら志願し、初代社長に

交渉成立後、正三氏は横河電機の山崎社長に志願し、日本ヒューレット・パッカード(当時:横河ヒューレット・パッカード)の初代社長に就任(1963年9月)。当時49歳。

社長時代の実績・取り組みなど

日本HP(当時:横河ヒューレット・パッカード/略称:YHP)の発足当初は、日米の親会社との連絡の煩わしさ、初期の業績の低迷で苦労したようだ。「もう孫の代まで外国企業と合弁はやらない」と思ったこともしばしあったという。

日米の企業文化の違いを埋める

日米の企業文化や組織運営の違いは顕著だった。そのギャップを埋めるするため、設立当初、米HPから副社長はじめ、生産、事務管理、経理などの主要ポストに人材を派遣してもらい、日米2人体制にした。様々なトラブルが起きたが、解決に取り組んだ。初期の段階で正面から議論を重ねたことで、意思疎通がよくなり、米HPの人間は順次引き揚げ、最後には非常勤役員だけとなり、常駐はゼロになった。

パーセンテージによるコスト管理

賃金制度、労務、人事評価などは横河氏ら日本側の意見が多く通った。一方で、生産や開発は米HPのやり方を学び、積極的に取り入れた。米HPの計数管理に基づく経営手法も採用した。コストの内訳の「%(パーセンテージ)」を重視する手法だ。原価が何%、販売管理費が何%、その中の販売促進費用が何%といった具合に、会社としての標準を決め、幹部が厳守する。

マーケティング部門に強い権限

マーケティングも米国式を取り入れた。市場を調査し、どんな技術で、どれくらいの価格の製品を作る、という権限を持つのがマーケティング部門をつくった。「技術」と「営業」に大きく分かれている日本企業の中では斬新なスタイルだった。

「値引きしない宣言」の挫折

設立当初「製品は値引きしない」と宣言し、営業にも実行させた。計測器業界は定価表があってないようなもので、激烈な価格競争をしている。ユーザーが強いということもある。一方で外国製品は定価通りに売れている。「価格競争の悪循環を断つ」という理由での決断だった。

しかし、値引きなしで売れず、横河電機から再三クレームが来た。最終的には赤字が拡大し、「値引きしない宣言」の撤回に追い込まれた。経営悪化により、横河に100人の従業員を引き取ってもらったという。

新製品ヒットで救われる

起死回生の新製品を開発するために5000万円の資金が必要となった。しかし、赤字だったため銀行に融資を断られた。「これ以上融資は頼まない」と念書をいれてようやく借りられたという。この新製品がヒットし、業績は急回復した。

役員会の根回し禁止

役員会の根回し禁止を徹底した。「発言しない役員は再任しない」と名指しで発言させた。

1973年に売上高100億円を突破。コンピューターでも飛躍

設立10年目の1973年に売上高100億円を突破。当初はHP製の電子計測器の製造・販売だけを手掛けていたが、コンピューター分野への参入で急成長に拍車がかかったのだった。

日米合弁の成功例として注目

日本HPは、日米合弁の成功の先駆けとして注目されるようになった。正三氏はこの経験を活かし、横河電機と米ゼネラル・エレクトリック(GE)、米ジョンソン・コントロールズとも合弁会社を設立し。業容を拡大することとなった。

日本HP社長退任後

1972年、日本ヒューレット・パッカード社長のまま横河電機に復帰し、副社長に。1974年11月、日本ヒューレット・パッカードを退任し、横河電機社長に(当時60歳)就任。計測器で国内3位だった北辰電機との合併を1983年に成し遂げた。

座右の銘、モットー

「1人はすべてのために、すべては一人のために」
※慶応大学時代に所属したラグビーのクラブチームの合言葉

社外での役職

通商産業省(現経済産業省)計量行政審議会委員、大蔵省(現財務省)税制調査会特別委員を歴任し、日本電気計測器工業会会長、経済団体連合会理事を務めた。

叙勲・褒章など

1984年勲二等瑞宝章(産業振興功績)を受賞。

逝去

心不全により死去。91歳だった。

葬儀

葬儀の喪主は長男の惇(じゅん)氏が務めた。

死亡時の役職

死亡時点では横河電機の相談役だった。


笹岡健三

(ささおか・けんぞう)

笹岡健三

※横河電機出身。創業家の前任者が横河電機社長に就任することになり、その後任として社長に昇格。18年の長期政権となった。

【期間】
1974年11月~
1993年1月

【生まれ】
1925年

【死去】
2017年12月28日(享年92歳)

横河会長や米国HP本社のJ・ヤング社長(1992年10月退任)からの信頼関係を得て、業容を拡大させた。

社長就任時の年齢

49歳

社長就任前の役職

横河電機の製造部長

前任者の新ポスト

横河正三社長は会長に

出身校(最終学歴)

京都大学(工学部)
※1951年卒業

入社年次

1972年

略歴

1951年、横河電機入社
技術課長、製造部長を歴任(渋沢賞、全国発明表彰を受賞)

1972年、横河・ヒューレット・パッカード(現在の日本ヒューレット・パッカード)に移籍。技術部長、事業部長を歴任

1974年、代表取締役社長(在任18年の間、同社を日本で最も成功した合弁会社のひとつに育てると共に、TQCを通じてHP社の経営、企業文化に貢献する。)

1993年、取締役会長

1996年、相談役、横河電機顧問

社長時代の実績・取り組みなど

ワークステーションで急成長

1970年後半、ワークステーションの販売を開始。年間100億円のペースで売り上げが増えた。親会社の利益率を超え、やがて売上高すら追い抜く勢いとなった。

日米摩擦が激化する中で、「日米合弁の最高の成功例」と米国からも最大の賛辞を受けた。

脱「横河」

1983年、横河電機が出資比率引き下げる。保有株51%のうちの26%を米HPに譲渡し、米HPの保有比率が51%となった。この譲渡交渉には、前社長の横河正三社長があたった。これ以降、日本HPは次第に米HP主導の会社へと切り替わっていった。

1991年11月から全製品のブランドを「YHP」から「HP」に統一した。同時に全国4支社を解体し、販売体制を製品別組織へ再編した。これは米HP本社に倣ったもので、とりわけ、WS事業のテコ入れを図ったものだった。

社外での役職

日本品質管理学会長(1992)、 国際品質アカデミー会員 (1994より)

受賞

1982年、デミング賞実施賞(会社)

1988年、石川賞(会社)

1990年、信頼性・保全性国際シンポジウム特別賞(個人)

1996年、デミング賞本賞(個人)

逝去

2017年12月28日に急性心不全のため逝去


甲谷勝人

(こうたに・かつと)

甲谷勝人

【期間】
1993年1月18日~
1998年10月末

【生まれ】
1934年

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

専務

前任者の新ポスト

笹岡健三社長は代表権のある会長に

他の主な役員人事

横河正三会長は相談役に退く
※事実上のオーナーだった横河正三会長(横河電機会長)の退任は、米HPと横河電機の合弁でスタートしたYHPが、HPのアジア太平洋地域ヘッドクオーターとしての性格を一段と強めたことを意味した。既に国内の電子計測器市場で親会社を超え、総合WS(ワークステーション)メーカーへ脱皮を目指していた。

人事の背景

笹岡社長は1974年11月以来18年間社長を務めたことから、9歳年下の甲谷氏に引き継ぎ若返りを図る。

出身地

山口県防府市 ※すぐ近くを流れる佐波川沿いの景色が忘れられないという。

出身校(最終学歴)

慶応大学
※1957年卒業

略歴

YHP設立と同時に横河電機から移籍。オイルショックで日本の経済界全体がガタガタになった18年前、横河正三氏の指名で、笹岡健三現社長のトップ就任に合わせて取締役に昇格。「笹岡-甲谷体制」で難局を乗り切り、成長を遂げた。

1957年(昭和32年)慶大経卒

1957年(昭和32年)横河電機入社

1964年(昭和39年)横河・ヒューレット・パッカード(YHP)設立と同時に移籍

1974年(昭和49年)取締役

1984年(昭和59年)常務

1988年(昭和63年)HP社医用電子グループ・アジア/太平洋ゼネラルマネージャ

1992年(平成4年)1月から専務

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

笹岡社長は「経営者に欠かせないものは周囲の人への心配り、大局観、国際経験の3つだ。それを全て備えている」と太鼓判を押した。

趣味(社長就任時)

趣味はドライブとゴルフ。


寺澤正雄

(てらざわ・まさお)

寺澤正雄

※初の生え抜き社長。新卒第一期入社

【期間】
1998年11月~
2002年10月末

【生まれ】
1940年8月28日

社長就任時の年齢

58歳

社長就任前の役職

専務

前任者の新ポスト

甲谷勝人社長(当時63歳)は代表権のある会長に

他の主な役員人事

1999年1月末の株主総会後に諏訪俊光専務、浅井修之常務が退任。

右腕だったエンタープライズ事業統括本部長の黒沢保樹取締役が退任。日本シスコシステムズの社長に転身する。

人事の背景

既定路線

出身地

愛知県

出身校(最終学歴)

同志社大学(工学部)
※1964年卒業

入社年次

1964年4月

略歴

1964年3月、同志社大工卒。

1964年4月、横河・ヒューレット・パッカード(日本HP)入社。
※新卒第一期入社

1983年、計測営業本部長

1984年、営業本部マーケティング部門長

1988年、取締役

1994年、常務

1997年1月、専務(代表権あり)

1998年、米HP副社長を兼務

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

全事業の60%以上を占めるコンピューター部門全体を統括していた。国際経験も豊富。

1997年からは代表権を持っていた。甲谷社長とともに米本社の副社長を兼務。着々と後継者としての地位を固めてきた。

家族

社長就任時、2人の娘はすでに嫁ぎ、母親と奥さんの3人暮らしだった。

社長時代の実績・取り組みなど

コンピューター事業統括を兼務

自らが担当する「コンピューター事業統括」に後任を置かず、社長として直接、各部門を指揮した。

事業を各部門の統括責任者にまかせ、社長は全体をバックアップするという甲谷体制から大きく方針を変えた。

カーリー・フィオリーナ時代

カーリー・フィオリーナ氏が1999年7月、米HPのCEOに就任

計測機器部門が分離し、アジレント・テクノロジーが発足(1999年11月営業開始)

1999年、ヒューレット・パッカード社からの会社分割により設立。コンピュータ、プリンタ以外の全部門(電気・電子計測機器、化学分析機器、医療機器、電子部品)の移管を受ける。

2000年、ヒューレット・パッカードが株式を売却し、完全に独立する。

社長就任時の抱負

在任中に現在の2850億円の売り上げを5000億円に引き上げる目標を掲げた。「パソコンやプリンターはまだヒヨッ子」として拡大に意欲を見せた。

趣味(社長就任時)

趣味は散歩。夜遅く帰っても奥さんと自宅の周りを40-50分歩く。

3年前に本格的に始めたゴルフは、甲谷社長から「まだまだ」といわれるハンディ25。


高柳肇

(たかやなぎ・はじめ)

高柳肇

※HPとコンパック合併に伴い、買収される側のコンパック社長から合併後の社長に。事前に新体制を築いた。しかし、合併(2002年11月)の直前の10月末、体調を崩して無念の入院。後進に譲った。

【期間】
2002年11月~
2003年4月末

【生まれ】
1941年11月8日

【死去】
2024年12月25日(享年84歳)

日本IBMの敏腕営業として鳴らし、「伝説の営業マン」という異名を得た。とくに金融業界に強かった。IBMを出た後は、外資系IT企業の社長として、日本法人同士の合併を3度も経験した。

2002年5月に米HPと米コンパックコンピュータが合併したことを受けて、日本における合併作業の陣頭指揮をとり、2002年11月に誕生した新生「日本HP」の社長に就任した。社員数は6000人の大所帯になった。

社長就任時の年齢

60歳

社長就任前の役職

コンパックコンピュータ代表取締役社長

前任者の新ポスト

寺澤氏は会長に

人事の背景

2002年5月に米HPと米コンパックコンピュータが合併。それを受けて、日本ヒューレット・パッカードがコンパックコンピュータ(東京・品川)を2002年11月に吸収。コンパック側の社長だった高柳肇氏新生日本HPの社長に。寺澤氏は会長となった。

出身地

神奈川県

両親

父親:高柳舜(しゅん)=元海老名市教育長。

※海老名市内の校長を5年務めた後、1976年から1988年教育長を務めた。

1937年、神奈川県師範学校を卒業し、尋常高等小学校の教師に。

戦時中に神奈川県の勤労報国隊長として満州へ派遣された。

1946年9月に帰国。教頭時代も授業を持ち続けた。

2005年3月24日、肺炎のため死去。享年87歳。

母親:高柳昌子(まさこ)

出身校(最終学歴)

慶応大学(法学部)
※1965年卒業

学生時代

詩人・立原道造(たちはら・みちぞう)が好きな文学青年だった。

入社年次

1965年

新卒での就職先

日本IBM

入社理由

希望していたテレビ局の試験に落ちた。 技術のことは分からないため、IBMには最初から営業になるつもりで入社

略歴

日本IBMの敏腕営業マン

※日本IBMに20年間勤めた。腕利き営業マンとして活躍。役員候補のエリートと見られていたが、1985年に退社。

最初の配属先で、いきなり信用金庫のシステムを逆転受注

新人研修1年3か月を経て、 1966年7月、金融業界担当の営業所に配属される。いきなり信用金庫のシステムを逆転受注した。 IBMの年度は12月決算だから、残りは半年しかない。 それに、すぐに夏休みで、ビジネス活動は停滞する。 そういう条件下だったが、私は、最初の年から「100%(ワンハンドレッド)クラブ」入りを果たせた。 その年は日本IBM始まって以来の不況の年で、金融部門で100%を達成したのはルーキーの私だけだった。

新入社員研修を経て営業マンとなったのが1966年7月。 それ以来、営業部門にいる間は、営業部長になっても、年間の売上目標を全部クリアした。 連続で13回。 営業現場にいるときの「連続13回のワンハンドレッドクラブ入り」は、新記録だった。 10回目の時に3人が特別に表彰されたが、他の2人を見ると、大先輩だった。 連続13回は、私の前にはいなかった。

32歳で営業所長に

信託銀行を担当する営業所長に就任。当時最若手の営業所長だった。
毎年日本IBMが全部門に対して行なうモラル・サーベイ(士気が高いか低いかの調査)では、高柳氏が率いる営業所が全社で断トツだったという。

社長補佐

椎名武雄社長の補佐を、1年間務めた。

※後任の社長補佐は、後に社長になる北城氏だった。
※日本IBMの「役員補佐」という仕事にあ、将来の幹部養成のための訓練という意味合いもあるとされる。

1983年、金融営業部長

※1983年、金融営業部長に就任。1000人近い大部隊を率いた。

技術者出身の北城恪太郎(後の日本IBM社長)とタッグを組み、三菱銀行などの顧客開拓で業界に名を馳せた。

日本IBMを辞めた理由

米国本社が重要な面でコントロールしていることの弊害を感じ始めていた。

また、自分の周りで闊歩しているアメリカナイズされた日本人に疑問を持っていた。

日本タンデム社長

日本IBMを退職し、1985年5月、日本タンデムコンピューターズ社長に就任。

就任受託の条件

様々な外資系企業からオファーを受けたが、社長就任を受け入れる条件として以下の2点を提示した。

  • 人事・組織に関して米国本社は一切干渉しない。
  • 自分の人事評価を、PL(利益)のみとする。

上記2点の条件を唯一呑んだ会社が、米タンデムだった。

タンデムは、ノンストップ(無停止型)コンピューターを得意とする米国のベンチャー企業。いわゆる「超並列コンピューター」の開発で台風の目になった。やがて24時間無停止型大規模コンピュータの世界最大手にまで成長。ニューヨーク証券取引所をはじめ世界で証券売買処理の90%以上、銀行ATM処理でも80%以上で、タンデムの無停止型マシンが使われるようになった。

しかし、当時の日本ではほぼ無名だった。日本法人の従業員わずか40人。年間売上高は十数億円。利益は赤字。

人材の引き抜き

就任2か月後、IBMの同僚だった2人を腹心として引き抜いた。IBM時代、この2人のビジネスに対する鋭い感性は抜群だったという。このスカウトが見事に功を奏することになる。

名前 役職 人物評・実績
和泉法夫
(後の日本SGI社長)
営業のトップ 豪快。猛烈な営業攻勢をかけ、古巣のIBMに真っ向から勝負を挑んで新日本製鉄などから大型受注をもぎとった。
菅原敏明
(後のサン・マイクロシステムズ社長)
SEのトップ(システム担当役員) 緻密

※このほか「バロース」(後の日本ユニシス)からも優秀な人材が続々と転職してきた。バロースは、日本ユニシスと合併によって主導権をとられてしまったこともあり、敏腕営業マンが次々と活躍の場を求めてきたという。

創業者トレイビックとやり合う

創業者ジム・トレイビック(ジェームズ・トレイビッグ)と正面から激しくやりあいながら、日本独自の採用を最後まで認めさせた。

タンデムでの実績

むしゃらな営業を仕掛けた。大企業を重点的に攻めた。日本IBMの顧客などである。

「オンライン市場」で勝利

以下の業界で勝利を収めた。

  • 某百貨店・・・流通業界に強い和泉氏が攻略
  • 某銀行・・・高柳氏が攻略
  • 巨大自動車メーカー
  • NTTなど通信
  • 航空業界

急成長する日本の「オンライン市場」で日本IBMの新機種「ストラタス」と一騎打ちになった。勝負は、タンデムに軍配が上がった。

業績が急成長

一時期米国のタンデム本体が低迷したときには日本が利益を支えたこともあった。

6年後、売上は20倍近い250億円。毎年60%の伸びだった。
==>コンパックに買収される時点では、売上高400億円
世界の利益の35%を稼いだ。

高柳氏は1990年2月に米国タンデム本社の副社長兼務となった。

「F1理論」を展開し、タンデムにマッチするアプリケーションの発見

「F1理論」を展開し、タンデムにマッチするアプリケーションの発見。例えば以下のシステムを実現した。

  • カードの信用照会システム
  • 流通業の受注システム
  • 銀行のATM
  • 社内メールシステム
  • 製造工程の管理システム
  • 証券取引システム
  • (後にインターネットをインフラとするシステム)

==>総称「オンライン・トランザクション・プロセシング」(OLTP)

コンパック時代(1998年1月スタート)

1997年6月、タンデムがコンパックに買収される。タンデムの売上はコンパックの10分の1だった。日本法人は1998年1月1日付で合併。

合併会社の新社長に、被買収側の日本タンデムの高柳肇社長が就任。さらに営業を統括する副社長にも、高柳社長の右腕を12年間務めた日本タンデムの和泉法夫専務が就任した。一方で旧コンパックの藤本邦明社長は会長に、村井勝会長も相談役にあっさり退いてしまった。

そもそもコンパックがタンデムを買収した理由の一つが、「日本市場に強い」ことだった。日本はタンデム連結売上げの約15%を占め、「タンデムのバランスシートにある剰余金の多くは日本が稼いだ」(業界関係者)とも言われている。いわば世界で一番の「優等生」だった。コンパックにとって無縁だった上流顧客をたくさん持っていることもあり、高柳氏が社長となったようだ。

1998年1月スタート

新会社は1998年1月スタート。社員800人。

合併後の組織づくり

コンパック側で樋口泰行氏が率いるパソコン販売チームが、男性アイドルグループ「TOKIO(トキオ)」を起用し、当たった。

DEC買収

1998年10月コンパックコンピュータと日本DEC(ディジタル・イクイップメント)が合併。今度は買収する側だった。継続して日本法人トップに立った。ただ、企業規模はDECのほうが大きかった。

高柳氏は3社のキャラクターを以下のように分析した。

コンパック 文系。スマート。ガッツに欠ける
タンデム 体育系。顧客志向。猪突猛進
DEC 理科系。技術志向。性格が暗い
社員3000人に

合併により日本DECの優秀な技術者2000人が入ってきた。

1999年1月スタート。社員3000人に膨れ上がった。

DECはサービス部門が一番強かった。サービスとは具体的には以下の3点。

  • ソフト開発
  • ハードメンテナンス
  • アウトソーシング

日本法人の上場を準備

高柳氏は当時、コンパック日本法人の上場を準備していた。マイケル・カペラスに提案。取締役会が承認した。

東証一部上場が決まり、幹事証券会社の下でプロジェクトチームが、土日もない作業に取り掛かった。ようやく公開のめどがついたところで、HPに買収されることになった。

HPとコンパック合併

2001年9月、合併の発表

2001年9月末、米国から、日本のトップの内示を受ける。

2002年11月に日本ヒューレッド・パッカード(HP)がコンパックコンピュータを合併し、新生・日本HP社長に就任。

毎週月曜の夜11時から2~3時間、日米の電話会議が行われた。 ●●●●●●●●●●●● 何より疲れたのは毎週月曜日夜11時から2-3時間の電話会議だった。 アメリカ西海岸、シリコンバレーにあるHP本社。 週初めの重要会議で、入念に合併の進捗状況がチェックされた。 こちらは東京の自宅、狭い書斎の中でのわびしい時間だ。 前日の日曜日の夜はもっとつらい。 その会議用資料を作るために、憂鬱な時間を過ごした。 この合併は取り扱う製品のマーケットが重複していたこと、 日本では両方でそれぞれ3000人の社員がいたこと、 社員の気質が全く異なっていたこと。 つまり、日本HPは紳士的、コンパックの日本法人は野武士的だといった違い等々。 私にとって、今までにない苦労を伴った合併だった。

日本HP 紳士的
日本コンパック 野武士的

2002年5月、HP株主総会で合併承認

合併の事前準備に奔走

合併に伴う人事や組織体制の整備に追われた。

世界で最も早く営業部門を先行統合

11月の合併に先立つ8月、営業部門を先行統合した。

多くの企業で見られる製品群ごとの営業体制を改め、出身会社にこだわらない営業販売体制を導入した。

直販部門では金融、情報通信、製造など業態別の三部門体制にし、ハードからソフト・サービスまで一人の営業スタッフが一貫して提供できる体制にした。

米国本社から命じられる厳しい人員削減

米国本社から命じられる厳しい人員削減を、実行する立場になった。

日本HP社長時代

社員6000人でスタート

合併の直前に緊急入院

合併(2002年11月)の直前の10月末、体調を崩して緊急入院。11月中旬に退院した。年末に再び体調を崩して緊急入院。

社長職の継続は困難と判断する。

後任に、樋口泰行氏を指名した。

外資系IT企業の日本法人の合併を3回にわたり経営者として経験した。

タンデム&コンパック
コンパック&DEC
コンパック&HP

2003年11月、ハイ・アベイラビリティ・システムズ社長に

2003年11月、ハイ・アベイラビリティ・システムズ社長に就任した。

ハイ・アベイラビリティ・システムズは、1985年11月設立。タンデム日本法人と「シーイーシー」の合弁会社として発足。 当初の社名は「バルテックス」。金融や官公庁の基幹業務を中心にシステム開発を行う会社としてスタートした。

●●●●●● 日本タンデムでの15年間、社外で私をサポートしてくれた方々は数知れない。 岩崎宏達という人がいる。 私が今でも尊敬してやまない人物である。 20代で会社を立ち上げ、東証1部上場企業にまで育て上げた起業家である。 日本タンデムは急成長に伴いシステム技術者(SE)の数の絶対的不足が深刻な問題となっていた。 特にタンデムのシステムはミッションクリティカル(基幹業務)の分野で使われているため、優秀なSEの獲得は焦眉の課題であった。 しかしすべてのコンピューターメーカーでSEの数が圧倒的に不足していた時代である。 簡単に集めることなど不可能だった。 私としては技術集団のソフトウェアハウスの力を借りねばならず、その為に合弁会社の設立を模索し始めた。 最大手のひとつ、株式会社シーイーシーに合弁会社設立をお願いした。

2003年10月「ハイ・アベイラビリティ・システムズ」に社名変更。

高柳社長の下、金融向けにシステムのセキュリティーと利便性向上に必須な特権ID管理ソリューションの販売に力を入れた。

ニックネーム

「伝説の営業マン」

趣味(社長就任時)

タバコ好きだった。

晩年

長年にわたり、ハイ・アベイラビリティ・システムズ会長を務めていた。

逝去

83歳

葬儀

お別れの会は2025年3月27日正午から東京・帝国ホテル。

死亡時の役職

ハイ・アベイラビリティ・システムズ会長


樋口泰行

(ひぐち・やすゆき)

樋口泰行

※当初は「社長兼COO」で、CEOは寺澤正雄会長が務めた。寺澤氏が役員定年(63歳)により退任した2004年9月からは社長兼CEO

【期間】
2003年5月1日~
2005年5月

【生まれ】
1957年11月28日

史上最年少の社長。当時45歳。旧コンパック取締役だったところ、HPに吸収合併された日本HP入り。サーバー販売で実績を出し、社長に。

社長就任時の年齢

45歳

社長就任前の役職

執行役員・インダストリースタンダードサーバ統括本部長

他の主な役員人事

寺澤正雄会長がCEOを兼任

人事の背景

前任の高柳肇社長が病気で倒れ入院。辞任することとなり、後任に抜擢された。

出身地

兵庫県

出身校(最終学歴)

大阪大学(工学部)
※1980年卒業

新卒での就職先

パナソニック(当時:松下電器産業)
※同期845人。

パナソニック時代

省略

ボストン・コンサルティング時代

省略

アップル時代

省略

1997年7月、コンパックコンピュータ入社(タンデム買収の直後だった)

コンパック時代

コンシューマPC事業部長

消費者向けパソコンを担当する「コンシューマPC事業部長」に就任する。 日本法人(1991年設立)は苦戦していた。 一般個人向けパソコンのシェアは1%以下で苦戦していた。 この個人向け事業の立て直しが任務だった。

部下は当初10人前後。キヤノン販売に的を絞り、総代理店の導入を準備
※1998年1月、キヤノン販売を対象とする「包括代理店制度」スタート==>大成功
日本独自のデザインのモデルを主張した。 ヒューストンに3週間居座り、説得を続けた。 「失敗したらクビ」という条件を申し出てようやく了承してもらった。

1999年7月、日本独自開発の「プレサリオ3500」発売。
日本デザイナーを起用。 生産は、自分で開拓した台湾OEMメーカー。 60%小型化を実現。

TOKIOキャンペーンで成功

1999年10月、ジャニーズ事務所の男性グループ「TOKIO(トキー)」を起用したキャンペーンを開始。当時最も人気のある男性アイドルグループだった。 これで「ブレサリオ」の知名度を徹底的に上げる狙いだった。
高柳肇社長は「金髪とピアスは絶対ダメ」と厳命していたが、押し通した。
米国本社も、キャラクターを使った場合、商品イメージが固定してしまうというので反対だったが、こちらも押し切った。
あらゆるメディアに広告を打った。
テレビはもちろん、電車のつり革、駅の構内、都営バスのボディー広告にいたるまでTOKIO一色となった。
この戦略は大成功した。

日本独自モデルは次々と代を重ねた。 赤字だった消費者向けPC販売を3年で10倍に伸ばした。

取締役に昇格

2000年10月、コンパック日本法人の取締役に

日本HPにて

HPとの合併

2001年9月4日、合併報道
※米国本社で企業向けビジネスを学ぶ研修プログラム(10か月間)に参加していた3か月目

2002年5月、研修を終えて帰国
新会社では「執行役員インダストリー・スタンダード・サーバ(IS)統括本部長」に就任。

PCサーバー統括本部長に就任
社内で「インダストリースタンダードサーバ(IS)サーバ」と呼ばれていた。
※旧コンパックの「プロライアント」(存続)と、旧HPの「ネットサーバー」(廃止)が参加。総勢30人程度
※低価格帯でデルの攻勢が激しかった。

サーバー戦略を発表

2002年5月の合併後の混乱で2002年はサーバーの市場シェアが大きく落ち込んだ。
日本HPは米HPと旧米コンパックコンピュータの合併の影響による製品体系の統合をめぐり営業活動が混乱。2002年のIAサーバーとUNIXサーバー市場では、ともに出荷台数が前年比30%減となるなど大幅に落ち込んだ。

2003年1月8日、記者会見。
低価格路線を発表===>シェア拡大へ
低価格製品を中心とする「ボリューム・ビジネス」と付加価値が高く利益率の高い「バリュー・ビジネス」の二極化戦略を発表。 この一環として「ボリューム・ビジネス」では六万円台の低価格IA(インテルアーキテクチャー)サーバーなどの製品を相次いで投入してきた。

2002年日本ヒューレット・パッカードとの合併に伴い、 日本ヒューレット・パッカード執行役員に。

社長へ抜擢

高柳肇社長が病気で体調を崩して長期入院。 辞任する運びとなり、後任に抜擢された。

経緯

2003年3月、米国本社から「次期社長候補だ」と伝えられる。 2003年3月末、日曜日。寺澤会長から自宅に電話があり、社長内定を告げられる。
※取締役会の20人弱のメンバーの中で、自分より若い人は1人しかいなかった。

HP社長時代

2003年5月1日付で、社長就任。

5月27日、企業向けビジネスの新戦略発表

5月27日、企業向けビジネスの新戦略を発表した。新戦略「アダプティブ・エンタープライズ(AE)」は、企業のIT基盤の環境変化に対する適応能力の測定・分析、仮想化技術やサーバー、ストレージ製品などにより低コストで変化に迅速に対応できるIT基盤の構築を支援する内容。

付加価値の高いサービス事業を展開することで攻めの体制に転換する。1月に発表された「バリュー・ビジネス」を具体化するものだった。

戦略を展開するため、IT基盤の測定・分析を行う専任コンサルタントである「アセスメントコンサルタント」30人を養成。企業内システムや企業間ネットワーク関連で300人のコンサルタントがAE事業を推進する態勢を整えた。

構造改革から攻めへの180度転換

構造改革から攻めへの180度転換を行った。 人員削減などの後ろ向きの施策を続けている間は、前向きな施策にすぐにも着手したいという衝動をひたすら抑える。 その間は、社員たちと飲みに行くことも控えていたし、懇親会などにもまったく出席しなかったという。 苦しい時期は、経営者も耐えることが大切だからだ。 そして、構造改革にメドが立った段階で、一気に前向きな姿勢を表面に出した。 意識して社員のマインドを前向きな方向、明るい方向に変え、営業力強化策を展開していった。


小田晋吾

(おだ・しんご)

小田晋吾

※日本HP一筋のプロパー。役員定年(63歳)により2年半で退任

【期間】
2005年5月9日~
2007年11月末

【生まれ】
1944年11月8日

社長就任時の年齢

60歳

社長就任前の役職

副社長

前任者の新ポスト

前社長の樋口泰行氏は6月1日にダイエーの社長兼COOへ

出身校(最終学歴)

東イリノイ州立大学(商学部)
※1970年卒業

入社年次

1970年

略歴

1967年3月、慶応義塾大学法学部卒業

1970年5月、東イリノイ州立大学商学部卒業

1970年、横河・ヒューレット・パッカードに入社。業務、経理、営業部門を経て、1997年に取締役

1999年、常務取締役

2002年11月、日本HPとコンパックコンピュータの合併に伴い副社長に就任

2005年2月、代表権のある副社長

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

日本HPのOEMビジネスの基盤を作った立て役者の一人。2004年5月から日本HPの営業部隊を統括し、直販を主体とする法人向け営業でも成果を収めたことなどが評価された。


小出伸一

(こいで・しんいち)

小出伸一

【期間】
2007年12月1日~
2014年3月31日

【生まれ】
1958年10月1日

社長就任時の年齢

49歳

社長就任前の役職

ソフトバンクテレコムCOO兼副社長

前任者の新ポスト

小田氏は役員規程に基づく定年(63歳)により12月1日付で顧問に退き、12月31日付で日本HPを退職。

出身地

福島県須賀川市

出身校(最終学歴)

青山学院大学(経済学部経済学科) ※1981年卒業

新卒での就職先

日本IBM

入社年次

2007年

略歴

1981年、日本IBMに入社
保険や都銀など大手ユーザー企業の営業責任者を務めた。

1998年1月、北城恪太郎社長補佐に就任

1999年2月、米IBMに出向し企業戦略部門に所属
一貫して日本IBMのエリート・コースを歩んだ。その後はシステム製品の事業担当、ITS・アウトソーシング事業担当、金融システム事業部長、社長室長、取締役などを務めた。

2005年3月、日本IBMを退職

2006年4月、日本テレコム(現ソフトバンクテレコム)に移り、営業担当の常務執行役、その後取締役副社長

2006年10月、代表取締役副社長兼COOに就任

2007年、日本ヒューレット・パッカード入社、代表取締役社長執行役員に就任

2014年4月、セールスフォース・ドットコムへ移籍

社長時代の実績・取り組み

2008年に米国本社が買収した米EDSのリソースや移行ノウハウを活用しながら、オープン環境への移行サービスを日本企業に提案した。旧EDSジャパンのリソースは200人程度と少なかったが、そのグローバル規模のリソースや開発メソドロジー(方法論)とHPのハードウエアをサービスに組み込むことで、相乗効果の発揮を目指した。

2009年12月には、高度なクラウド環境実現のための新戦略『コンバージド・インフラストラクチャ』と、それに基づいたサービスなどを発表。 サーバ、ストレージからネットワーク、電源冷却設備まで統合管理でき、システムの最適化や運用効率化といったメリットを訴えた。

社外での役職

2018年6月、三菱UFJ銀行の社外取締役

2019年3月、公益財団法人スペシャルオリンピックス日本の理事に就任


ジム・メリット

(Jim Merritt)

ジム・メリット

※デル日本法人社長の経験がある。

【期間】
2014年4月~
2015年1月

【生まれ】
1957年10月

米HP上席副社長(アジア太平洋・日本担当)との兼務(暫定的)

社長就任時の年齢

56歳

社長就任前の役職

米HPアジア太平洋・日本地域担当、上席副社長

前任者の新ポスト

小出伸一氏は退任。米セールスフォース・ドットコムへ移籍し会長兼CEOに就任

人事の背景

日本HPは約6年間社長を務めた小出伸一氏が米セールスフォース・ドットコムへ移籍したため、2014年4月から米HPアジア太平洋・日本地域担当のジム・メリット上席副社長が日本法人社長を兼務した。

出身地

米フロリダ州

出身校(最終学歴)

フロリダ大学(機械工学学士号取得)
※1981年卒業


吉田仁志

(よしだ・ひとし)

吉田仁志

【期間】
2015年1月1日~
2019年9月

【生まれ】
1961年7月17日

社長就任時の年齢

54歳

社長就任前の役職

SAS Institute Japan 代表取締役社長

前任者の新ポスト

ジム・メリット氏は退任、引き続き米HPアジア太平洋・日本地域を統括

人事の背景

前任のメリット社長は、米SASインスティテュートの日本法人社長だった吉田社長をトップとして迎え入れた理由について「ハード、ソフト、サービスと幅広い経験と見識を持ち、顧客志向を含め、あらゆる資質を備えている。任せられる」と太鼓判を押した。

出身地

神奈川県

出身校(最終学歴)

米国タフツ大学

新卒での就職先

1983年、伊藤忠グループ入社

入社年次

2015年1月

略歴

1983年、伊藤忠グループ入社(1991年5月伊藤忠商事入社)

米スタンフォード大学大学院コンピュータ・サイエンス修士号取得

米ハーバード大学ビジネススクールMBA取得

1997年、ケンブリッジ・テクノロジー・パートナーズ社長
※2001年7月に米ノベルがケンブリッジを買収したことに伴い、米ノベル社日本地区代表を兼任。

2001年9月、ノベル社長

2006年、SASインスティチュート・ジャパン社長

2015年1月、日本HP社長

2019年10月1日付で日本マイクロソフト社長

米本社にあわせて日本も分割

米HPの分社は2015年11月1日付で完了。インフラ、サービス、ソフト、クラウドの4事業を束ねる「HPエンタープライズ」と、パーソナルシステムとプリンティングで構成する「HPインク」に分社した。

日本HPの分社は2015年8月1日付で完了。エンタープライズ事業の「日本ヒューレット・パッカード株式会社」、PC・プリンティング事業の「株式会社日本HP」の2社に分かれて事業を開始。吉田社長はHPエンタープライズを率いることになった。


ジャスティン・ホタード

(Justin Hotard)

ジャスティン・ホタード

※暫定マネージングディレクターとして日本法人の社長に。2020年1月31日に代表権を持つ社長に正式に就任

【期間】
2019年10月1日~
2020年8月31日

【生まれ】
1974年

社長就任時の年齢

44歳

社長就任前の役職

HPE ハイブリッドITグループ ボリュームグローバルビジネス部門 シニアバイスプレジデント兼ジェネラルマネージャー

前任者の新ポスト

吉田仁志社長は退任(即日、日本マイクロソフト社長に就任)

出身地

アメリカ

出身校(最終学歴)

イリノイ大学(電気工学部)
※1997年卒業

学歴

イリノイ大学の電気工学にて理学士号(Bachelor of Science)、マサチューセッツ工科大学スローンマネジメントスクールで、経営修士号(MBA)を取得した。

略歴

HPE入社前は、米NCRで中小・ベンチャー企業向けビジネスのプレジデントとして同社のSaaSビジネスを成長に導き、NCRのエンターテイメント部門ではバイス・プレジデント兼ゼネラルマネージャーを務めた。米NCR以前は、旧Symbol Technologies and Motorola, Inc.で経営企画およびオペレーションに従事した。

2015年、米ヒューレット・パッカードエンタープライズ(HPE)入社。
HPEのデータセンター・インフラストラクチャーグループのCOO 兼 ストラテジー責任者、ボリュームサーバー・グローバルビジネスユニットのシニア・バイスプレジデント兼ゼネラル・マネージャーを歴任してきた。


望月弘一

(もちづき・ひろかず)

望月弘一

【期間】
2020年9月1日~

【生まれ】
1963年

社長就任時の年齢

56歳

社長就任前の役職

米レッドハット日本法人社長

前任者の新ポスト

ジャスティン・ホタード氏は代表権のある会長に

出身地

栃木県

出身校(最終学歴)

上智大学(外国語学部英語学科)
※1986年卒業

略歴

1986年、日本IBM入社
※20年余にわたり日本・アジア太平洋地域および米国本社にて営業、戦略、サービス事業等、様々なマネジメント職務に従事

2010年10月、ディメンションデータジャパン社長
※セールス、ソリューションサービス、マネージドサービス、プロフェッショナルサービス、財務、およびすべての支援部門を含む日本事業を統括

2015年11月、レッドハット社長

2020年9月1日、日本ヒューレット・パッカード社長


<日本HPの歴代社長>
名前 評判・実績・評価など

岡隆史

(おか・たかふみ)

岡隆史

【期間】
2015年8月~
2021年10月31日

【生まれ】
1958年10月22日

社長就任時の年齢

56歳

社長就任前の役職

副社長

出身地

兵庫県洲本市

出身校(最終学歴)

筑波大学
※1982年卒業

新卒での就職先

東京リコー

入社年次

1992年

略歴

1982年、東京リコー入社

1986年、富士通入社

1992年、コンパックコンピュータ入社

2002年、日本HP マーケティング本部長

2006年11月、パーソナルシステムズ事業統括

2007年、副社長

2015年8月、社長

2021年11月1日、会長

社長就任前の実績・評価・評判・口コミ

コンパック時代

コンパックコンピュータは1999年7月から、インターネットや電話を活用したパソコンの直販事業「コンパックダイレクトプラス」を開始したが、岡氏は、そのときの中心メンバーだった。 高柳社長の下で始まったダイレクトプラスは、ユーザーはインターネットで日本全国24時間365日体制でパソコンの購入が可能となった。電話窓口も年中無休(ウイークデーで午前9時から午後9時)で問い合わせと注文を受け付け、直販事業の総合的な顧客対応窓口とした。 サプライ・チェーン・マネジメント(SCM)の見直しを含め、在庫を持たない体制を確立した。 多摩事業所(東京都あきる野市)で一括して組み立てを行うことで、標準5営業日での納品を可能にした。 パソコン直販で先行するデルの追撃を図った。

HP副社長時代

2011年8月、東京の昭島工場でノートパソコンの生産を開始。年間生産台数50万台規模になるというビッグビジネスを、中国の工場からもぎ取った。 足かけ6年にわたる、ヒューレット・パッカード本社との激しい交渉の末、ノートパソコンの国内生産を認めさせたという。

東京にPCの製造拠点をおいた「Made in Tokyo」は、日本HPのPC製品の代名詞ともなり、HPを日本PC市場のトップブランドに育てた。


岡戸伸樹

(おかど・のぶき)

岡戸伸樹

【期間】
2021年11月1日~

【生まれ】
1974年8月

社長就任時の年齢

47歳

社長就任前の役職

常務執行役員 デジタルプレス事業本部長

前任者の新ポスト

岡隆史氏は会長に

出身地

愛知県

出身校(最終学歴)

一橋大学(商学部)
※1997年3月卒業

新卒での就職先

1997年4月、アンダーセンコンサルティング(現・アクセンチュア)に入社

入社年次

2003年

略歴

2003年1月、日本ヒューレット・パッカードに入社
エンタープライズ事業で経営企画やマーケティングなどを担当。

2009年11月、パーソナルシステムズ事業に異動

2015年8月、日本ヒューレット・パッカードの分割に伴い、新・日本HPの執行役員(Eコマース事業本部長)に就任

2017年11月、常務(Eコマース事業本部長兼コンシューマ事業本部長)

2019年8月、常務(デジタルプレス事業本部長)

2021年11月、社長